ZUNTATAメンバーズコラム vol.5 (特別寄稿)

ZUNTATA 20周年に寄せて - なかやまらいでん (コンポーザー)

20年という月日は、長い。

 

過ぎてみれば短いようにも感じるかも知れないが、その中で体験した出来事を並べるだけで、その月日の長さは確実に証明される。

 

20年前。ゲームに関わる仕事が出来たらいいな、という漠然とした考えだけで、就職を控えたある高校三年生が願書を出した。 入社試験帰り、「合格しますように」 と願をかける気持ちで三画面筐体の前に座った。 その時にはまだ、まさか高卒の自分がゲーム開発に携わることになろうとは、考えもしなかった。 ましてゲーム音楽を創ろうなどとは。

 

翌年、無事入社を果たし、新人研修での紆余曲折の後、ゲームサウンドを開発する部署への配属が決まった。 “ZUNTATA” という名前でCDを発表したりする華々しさとは裏腹に、当時の設備は非常に貧相なものだった。 メンバー9人に対して鍵盤は3台、必須であるはずの開発用PCですら、人数分に足りなかった。 最初に自分に与えられた仕事は、ゲーム筐体に使う 12cmスピーカーをボックスとして組み立てるという作業だった (当時は筐体スピーカーで常に音をチェックしつつ開発するのが通例。ヘッドフォン等は使っていなかった)。 量販店で購入した木枠に黒のスプレーで色を吹き付け、木枠の内側にグラスウールを貼り付けた。 グラスウールというものを見たことも聞いたことも無かった自分は、なんと素手で長時間作業してしまったため、両手がチクチクと痛んだ。 なんとか完成に漕ぎ着けた(と思われた)スピーカーボックスも、その幾つかは「組み立てが甘い」とやり直しを命じられた。 実際にゲームサウンドを手伝うようになったのは、その数ヵ月後の話である。

 

'92年頃、タイトーではENSONIQ社製の新音源を採用。 この音源が搭載された新ハード “F3” のサウンド開発は困難を極めた。 抜群の性能を持ちながらピーキーな一面もあった音源だったために、原因が分かりにくい不具合が頻発した。 その一つ一つを、それこそ数年掛けて対処法を探った。 あるシューティングゲームでは、曲途中からのループ処理が原因で数時間後に音が出なくなってしまうというトラブルが発生し、マスター出しの当日まで格闘しながらも、結局対処法を見つけ出すことが出来なかったこともあった。 この不具合の原因が解明したのは、それから半年後のことである。

 

いつも、目の前にある仕事の壁を切り崩すことだけで精一杯。 “コンセプチュアルなサウンドデザイン” などという華々しい横文字と自分とは無縁のようにも思える。 当時の上司曰く、自分は「最後の叩き上げ」なのだそうだ。

 

Impromptu

20世紀最後の年、アルバム「Impromptu」を卒業制作と位置付け、後に退社。 13年に渡る “叩き上げ” の奮闘は、ここで一つの区切りを迎える。 しかしながらこの13年の経験は、独立した今こそ確実に活きていると実感出来るのだ。 何より自分は、素晴らしい作り手達・・・ZUNTATAのメンバーが実際に作品を紡ぎ出す労苦と瞬間を、その目にしてきているのだから。 そして、幸運にも同じ労苦を体験出来たのだから。

 

自分も来年、この仕事を始めてから20年を迎える。 腕前はともかく、キャリア上ではとても新人とはいえなくなってしまったようだ。 入社当時は中学生に間違われることがあった程なのに、今では恰幅の良さも含めてすっかり “いい年齢” である。 ゲームという媒体に対して当時ほど熱く語ることも出来なくなりつつある。 ・・・それでもたった一つ、新人の頃と全く変わらない想いが、自分にはある。

 

スタッフロールの中に自分の名前を見つけた時の感動。

 

完成して世に出た作品は、華々しく見えるかも知れない。 けれどそこに至るまでには、少しづつ命を削るような努力が確実に隠されている。 決して格好良いものではないし、格好をつけるようなものでもない。 作り手達はこの感動を得るために、地道な労苦をひたすらに積み重ねる。 20年前も、現在も、きっと皆同じ労苦と感動を共有しているのだろう。

 

そして、これからも。

Profile

なかやまらいでん(Nakayama raiden)

元ZUNTATAメンバー。 タイトー退社後はフリーのコンポーザーとして潜行活動中。 近作に「ロストマジック」 「私のハッピーマナーブック」などがある。