ZUNTATAが25周年を迎えるにあたり、これまで様々な面からZUNTATAを形作り、そして支えていただいた方々からお祝いのメッセージをいただきましたのでご紹介させていただきます。(敬称略)
この他にもたくさんのメッセージをいただいております。順次更新していきますので、お楽しみに。
- きみたちへの手紙 -
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ZUNTATAは・・・ん~なんだろうと、筆が止まってしまいます。先ほどから既に
3時間ほど液晶画面とのにらめっこ状態が続いているのです。
正直なところ書きようがないからです。私自身が深く大きく関わったサウンドチームであったのは確かですが、それ故に書きようがないのかも知れませんね。
1987年、パブリックに登場して以来現在にいたるまで、そのブランドイメージを保ち続けたのは脅威的(※)事実です。そしてそれらを支えて来たのがZUNTATAファンの方々なのだというのもまた決定的事実です。
これはまさに感謝の一語に尽きるでしょう。
現在の私の立場としては、他人行儀に「25周年おめでとうございます」と言えばそれで済むのかも知れません。ですが他人ごとにするにはあまりにも多くのヒストリーを私自身が抱え過ぎているようです。
さて困りました、、、。
ZUNTATAは・・・ん~。
P.S.
私の中でZUNTATA時代に培った未来志向は未だに「呼吸」を続けています。そして、現ZUNTATAも同じ「呼吸」をしているに違いないと私は信じています。
小倉久佳音画制作所(@H_Ogura)
※(脅威的):例えば一企業が、あるいは一人のタレントが、更には一つの製品が、そのいずれであっても25年の長きに渡ってブランドとして確立していくこと。その困難さと力強さを鑑みあえて「驚異的」を「脅威的」と表現してあります。
私とズンタタ
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足かけ3年延べ9か月の台湾出張から戻った頃、中研(※1)の開発ではSJシステム(※2)が完成していた。このシステムのサウンドにはGI社の8910(PSG)(※3)が4個搭載されていた。サウンドもオペアンプとCR(※4)で設計したアナログBEEP音時代からデジタルへと進化していた。矩形波ではあるが3音同時に発音が出来る。ゲーム音楽の歴史の始まりである。ところが中研の開発には「オタマジャクシ」を読める人材が居ない。私がサウンドを任された理由はこれだ。私は中学で器楽部(ギター)、高校で吹奏楽(サックス)、大学でジャズに目覚め、20才頃からは市民オケ(パーカッション)に参加、このオケ(※5)活動は今でも生活の一部となっている。
確か第5研究室と言うのが最初のサウンド開発の名称だったと思う。3名だった。私がマネージメントと楽曲、小野がシステム全般、田中がSEと電気回路を担当した。ズンタタを語る時この二人を忘れてはいけない。彼らがタイトーサウンドシステムを構築した。特に小野が開発したサウンドエディタ(SED)は長期に渡りズンタタサウンドを支えた。
音創りの環境が整えば音は音屋に任すのが一番。小倉を筆頭にズンタタで有名になった奴らが年々入ってきた。その当時私は更なる環境強化(音源チップ2610等)を行っており音創りは彼らに任せていた。私は彼らに対し会社人としてのモラルを守っていれば特に文句は言わなかった(と思う)。ただ自分が常日頃生音に接している為か、電子音であっても活きた音創りをする様注意はしていた。
ズンタタは彼らが命名し彼らが育てたチームだ。私はサウンドのリーダーとして会社との交渉を受け持った。
面白いエピソードがある。或る年タイトーファン感謝祭なる催しが幕張で行われた。そこで初めてズンタタの小ライブが行われた。その演奏後舞台上に当時の社長を呼び出しファンの前でライブ開催を約束させた。それがセガとの共同開催となった青年館でのライブだ。私もギンギラギンのユニフォームを着てライブに参加した。セガはスタジオミュージシャン中心の構成だがズンタタは皆タイトーマンだ!音楽的上手さを比べればセガはセミプロ、勝負にならない。でも活きた音楽・楽しい演奏・人を引き付ける力はズンタタの勝ちだと思う。
このライブ終了後、打ち上げを兼ねて皆で温泉旅行に行った。旅館の風呂は露天で混浴だった。男子が女子に内緒で計画した事だと思う。でも彼女達はバスタオル1枚体に巻き付け我々と一緒に入った。サウンドのリーダーとしてこんなにうれしい事は無い。会社組織に囚われないチームとして頂点を極めたと思う。翌早朝、風呂に行った。朝靄か湯煙か忘れたけど何とも言えない静寂感が有った。飲んで騒いだ後の朝風呂は気持ちがいい。のんびり湯船に浸かっていた。そんな時「あら今村さん。」「オーお前か!」と湯船で交わした何でも無い会話に、言い知れぬ充実感を覚えた。今は昔の事だ・・・。
※1(中研):中央研究所 ※2(SJシステム):インベーダー以降、タイトー初の本格的システムボード。スペースクルーザー、スペースシーカーの2作品がデビュー作品。その後の作品を今村氏の仕事とダブらせると、アルペンスキー・ワイルドウェスタン・エレベーターアクション・ジャングルキング・タイムトンネル他 ※3(PSG):プログラマブル・サウンド・ジェネレータ ※4(CR):コンデンサーと抵抗 ※5(オケ):オーケストラ
■今村善雄氏 Profile
タイトーにサウンド開発部門を創設し、自らもコンポーザーとして活躍。その後のZUNTATAサウンドの礎を作った。
代表作:エレベーターアクション、ちゃっくんぽっぷ、ワイルドウェスタン、ジャングルキング、他
現:ジョイテック株式会社 取締役
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ZUNTATA 結成25周年おめでとうございます。
そうですか?あれからもう25年が経過したんですね?年を取るわけですね。
当時アルファレコードの担当者としてGMOのタイトー作品第2弾「ダライアス」の発売に向けて、何かアーティスト名称を付けましょうということになり、その決定の電話を待っていました。
「決めましたズンタタです。」というタイトーのO氏からの言葉に「ず、ずんたた?」そのユニークなネーミングに目を丸くしたのを今でも良く覚えています。
そのZUNTATAがそれからゲーム界・音楽界に大きな旋風を巻き起こしたことは、皆さんも良くご存知の事と思います。
ZUNTATAを通じていろいろな仕事をご一緒させて頂きましたが、とにかく人のやっていないこと、他とは違うことをやりたい!というあくなきクリエイティブ心をいつも彼らから感じていました。現在は当時とは置かれている環境は劇的に変化していると思いますが、ZUNTATAは、「音楽が好き!」「クリエイティブであること!」これだけはキット変わる事のない彼らの真理だと思います。
これからも我々に「あっ!」とか「えっ!」と言わせてください。
益々の活躍お祈りしております。
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タイトーのゲーム音楽に「メッセージやストーリーを感じる」ことを共通体験として「ZUNTATAらしさ」と語るファンは多い。けれど既存の音楽にとらわれないZUNTATAの個性的な楽曲群は、発祥から現在に至るまで歴代メンバーの個性が尖りすぎているのも事実で、タイトーのゲーム音楽の一貫性を「ZUNTATAらしさ」という言葉で語ることは難しい……という矛盾に気づく。僕らがタイトーのゲームを遊ぶときに感じている「ZUNTATAらしさ」とは何なのだろう? 思い返してみると、知的好奇心や試行錯誤、反射神経を刺激するゲーム本来の体験以上に、前述した「メッセージやストーリー」など“何か”をプレイヤーが受け取り、あるいは想像(創造)するとき、心の中には同時にZUNTATAの奏でる楽曲がいつも流れていた。ゲームが、本来受け手であるはずのプレイヤーの心の中で、作り手の想像以上のプレイ体験へと育つタイトーイズム。その化学変化を聴覚から促す楽曲群こそ「ZUNTATAらしさ」の正体なのではないか。楽曲と音と声。あらゆる音楽要素の個性が尖りすぎていながら、プレイヤーの解釈や想像を深く広く受け入れる尋常ではない器の大きさ。ZUNTATAは宇宙だ。25周年を経て、これからもまだ見ぬ新しいゲームの光景を僕らに見せてくれるはず。期待しています!
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その昔、アーケードゲームが光り輝いてた頃、大手メーカーのサウンドチームでも特異の個性をもったチームZUNTATA。本人達に言わせると「そんな事はない」と否定はされるが、外部からみたらメーカーの色が色濃く出ていた。
一定のメーカー色があるというのは素晴らしくもあり、ファンにとっては確固たるサウンドの血統書が付いているような感覚で。統一された機能美みたいなものかもしれない。単純にハードウェアの都合かもしれない?
四半世紀。業界をとりまく環境もどんどん変わっていく昨今、新たな決意と共に打ち出すZUNTATA、今日までの旧ZUNTATAを払拭して飛び出して行くに違いない!草葉の陰からこっそり応援致します。
いや~半世紀ですかっ!生まれた子供が25歳になっちゃうんですよっ。25歳の若造が50歳になっちゃうんですよ。言っちゃえば定年方が近くなっちゃうんですよっ!長いもんです。早いもんです。自分もネオ細江とか名乗っちゃおかな(嘘です)たまに古巣に伺う事はあるけど、若さ溢れててタジタジですもん。
お互い共に頑張りましょうっ!
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このたびはZUNTATA 25周年、おめでとうございます。
ちょうど25年前、1987年の春、私はアルファレコードのLDKスタジオにて「ダライアス」アレンジバージョンのレコーディングに参加しておりました。ZUNTATAアレンジの3曲ではマニピュレーター、つまりコンピューターやシンセサイザーのオペレーター的な役割で、OGR氏が書かれた譜面を元に、その音符をRoland MC-500というシーケンサーに入力、Roland S-50,S-10,AKAI S900などのサンプラー、Prophet-5などのシンセサイザーの音作り。ZUNTATAアレンジの3曲はOGR氏のイメージを具体化する事に専念し、音色のアイデアを出しながら、打ち込んだデータをチェックし、マルチトラックにレコーディングしていくという、約一週間の共同作業でした。そういえば、スタジオで「いよいよバンド名を決めなくてはならない」という状況にOGR氏は食事も喉を通らない感じで悩まれていたのを思い出します。大野善寛氏のコメントにもあります様に、OGR氏がスタジオ内でズンタタという名に決定されたまさにその瞬間に(弁当たべながら)「お~!いいんじゃないっすか?」(笑)と他人事の様な返事。
その頃は、サウンドチームにバンド名をつける事がまだはじまったばかり。当時はバンド名自体が普及するのかどうかすらわからなかったのですが、それがこうやって25年も、しかもこんなに大きくなって残り続けるとは。
その後のサウンドチームの皆様が、よい作品を継続して発表されて、しっかりとその名を受け継がれてきた力に他なりません。改めて敬意を表したい次第です。
益々のご活躍、お祈りしています。
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子供のころに大阪ミナミのとあるゲーセンで見た巨大筺体。
画面を3つも使って専用のイスまである。
よーくみたらヘッドホン端子らしきものまでついてる、
ハッキリ言って異様なブツがそこに鎮座していました。
そのゲーセンは鉄道のガード下にあって、ものすごい騒音のため
ほとんど音は聞こえないものの、えらく重低音がズシンズシンしていました。
友人にプレイすることを促して、自分も筐体に乗り込む。
奥まった画面に浮かぶ "DARIUS" のタイトル。
おもむろにコイン投入。
チッカンステレテ ヒャン!ヒャン!ヒャン!
コイン音に感銘を受けたのはゼビウスの「ズギュフニュウ」以来。
残念ながら騒がしい店内で音はあまり聞こえず、ほどなくして
サントラのレコードを手に入れることになります。
FM音源のZUNTATAサウンドは、よじれる感じのシンセバイオリン風メロ音が印象的で
ベースがズミュズミュ絡みつくとてもアッパーなノリ。
PCMのロービットさが、これまた聴くものの神経を尖らせてくれました。
そういえばニンジャウォーリアーズに登場する津軽三味線ソロは、
今でも和モノの代表格みたいな存在だと思います。
自分もちょくちょくパク…インスパイアされたものです(笑。
あ、そういえばスクランブルフォーメーションのライナーノーツに、
作曲者であるOGR氏の結婚式に同作品の楽曲が使われたとあり、一気に大人の世界を
垣間見たのが超なつかしいであります。
当時自分が感じたものが、世代を超えてどのように感じられているのか。
そんなことを考えながら今日もヘッドホンで汗をかいています。
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ZUNTATA25周年おめでとうございます。すごいですねぇ。まさに「継続は力なり」!!
僕がゲーム音楽の仕事を始めて最初の頃に大変お世話になっていたのがTAITOであり、小倉久佳さんでした。「ダライアス2」のメガドライブへの移植のため、確か週に3回くらい綱島のTAITOまで電車とバスを乗り継ぎ通ってました。小倉さんは終始優しい方でこちらの未熟な対応にも我慢強く付き合ってくれて、本当に今でも感謝しております。メガドライブの「インベーダー'90」では確か海老名の工場に通った想い出が。(とにかくTAITOは「遠い」イメージがあります(笑))。PCエンジンの「パラソルスター」では。やはり小倉さんと曲の方向性などを話した記憶が。最近気が付いたのですが、僕の中のゲームの音楽における基礎というか根底のところにZUNTATAの音楽が自然と染み込んでいるじゃないかと思います。
これからも一層の活躍を期待しています!!どんどん引っ張ってってください!!
TAITO、そしてZUNTATAとの出会い
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一番最初にTAITOのゲームに出会ったのは、
78年に発売されたスペースインベーダー。
近所のおっちゃんに連れられた先の喫茶店に置いてあったテーブル筐体が最初の出会いだ。
おっちゃんと向かいあって座り、交代2人制のゲームの筈なのに、
自分の順番でない時もコントローラーを動かし、あたかも自分がUFOやインべーダーを
操作している風の「感覚」に陥っていたのが懐かしい。
そういえば、70年代の最も強烈な記憶は「インベーダー」と「スターウォーズ」と「井上陽水」位の物だ。
音楽も同じだがゲームもその時プレイしていた状況を同時に記憶している事が多い。
インベーダーならダークな喫茶店
エレベーターアクションなら近所の駄菓子屋さん
少ない小遣いで買ったファミコン版フロントラインの衝撃的内容(笑)
スカイデストロイヤーは強烈なCMとキャッチコピー
奇々怪界は隣町のゲーセンでプレイ中にヤンキーと揉め事になった事
影の伝説は友人のファミコンカセットを紛失させてしまった事
ニンジャウォーリアーズはクラスのみんなでレコードを廻して聴いた事
イヤホン持参で四条河原町のゲーセンに通ったダライアス
さて、少し話が戻り過ぎてしまった感もあるが、
人格を形成する時期に見て感じ、そして経験した事は当たり前だが今の自分の血と骨になっている。
それはとても幸せな経験だったんだなぁ、と。
今、僕は「受け手」から「送り手」となって日々曲を書いているが、
人の人生を変えちゃう位なのだから、やっぱり凄いと感じています。
そしてZUNTATA!
レインボーアイランドの「デチューン」の飛び感覚は、僕の音色作りのお手本の一つだし、
津軽三味線の音色を聴くと、真っ先にニンジャウォーリアーズの「DADDY MULK」が頭の片隅に鳴り始める。
それは単なるノスタルジーではなく今も脈々と僕の中で生き続けている証拠なのだ。
最大級のありがとう。
そして、ZUNTATA25周年に乾杯!
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ZUNTATAについて何かコメントを...というオファーを受けて
久々にMacの前に鎮座してみたものの、さて何を書いたらよいのやら?
だいたいMacの前に座ること自体が久々という事実が現在のわたしの全てを
物語っているわけだが、とにかくまぁ音楽制作活動からは
ほど遠い日々ってことである。
子供にピアノやリトミックを教えるなど音楽そのものには携わっているものの、
作曲をすることは年に数えるくらいで、当時からするとあり得ないほど
究極のアナログ生活を送っている。なんたってメインのオシゴトは育児と家事だ。
つまり、本来のわたしはそういう人種なんだと思う。
バンド活動はしていたし、JAZZやFUSION(この言葉自体懐かしいね)は大好きで
コピーもしていたが、元々はクラシック畑に育ち、ゲームにゲの字も知らず、
使える家電はドライヤーとラジカセぐらいだった。
それがどういうわけだか縁あって、HEXだASCIIコードだROMだ基盤だという世界に
迷い込み、気づけば12年も作曲活動を続けることになろうとは...。
今考えれば、こんなわたしをよくを採用してくれたものだ。
男の園に女性がたったの2~3名のZUNTATAに入ってから2年間はただもう涙、涙。
研修で習うことの全てがワケの分からない宇宙語としか思えず、
正直、あぁなんでこんなとこに入っちゃったんだろう?と後悔することもあった。
ただ、OGR先生による同時発音数3音のYM2203研修中、ヘッポコながらも
自分の曲をHEXで打ち込んだ時、自分が演奏しなくても目の前で再現される
音世界に感動したことは今でも鮮やかに記憶している。
今まで自分の関わってきた音楽は一瞬一瞬生まれては消えてゆくそれであり、
打ち込んだデータを深く掘り下げてゆく作業の面白さにはZUNTATAに入って初めて
出会ったので、以降苦労しながらも傾倒していった。
諸先輩方の作品を聴く度に、自分には逆立ちしたって真似できないやと思っていたが
3年目頃からやっと楽しめるようになり、そこからは深夜2時帰りと徹夜と休日出勤の日々。
ZUNTATAではそれが割と当たり前だった。
何も知らないフツーの女の子がゲーム音楽を作り出すようになり、あれよあれよ
という間にLIVEステージにまで立たせてもらったり、CD制作にまで携わらせて頂き
他では決してできない貴重な12年間を経験させてもらった。
何も分からなかったからこそ無我夢中でできていたが、それはとてもスゴイことだったし
いろんな意味でスゴイ場所だったと当時を振り返って改めて思う。
25周年おめでとうございます。
あの時あの場所に居られたこと、今ではとても感謝しています。
時は流れ、当時とは規模も形態も異なるとは言え、今も第一線でゲーム音楽を提供する
チームであることには変わりはないと思います。
今後育児が一段落した後には、また形を変えて
ZUNTATAとのコラボレーションができたら嬉しいです。
ZUNTATAのますますのご活躍を期待しています。
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小学二年の夏休み。父の単身赴任先である仙台に遊びに行き、たまたま立ち寄ったゲーセンで、ゲームと言えば家庭用だった自分が初めて遭遇した三画面筐体。シート下のスピーカーからの体を揺さぶる重低音。あっという間にお小遣いを使い果たし、呆然と筐体を眺めていたらオーナーと思しきお爺さんが、おもむろに鍵を取り出しサービスボタンを連打。『遊んでいいよ』と声をかけてくれました。今でもDADDY MULKを聴く度、そのゲーセンのレイアウトを思い出します。
これからも、色んな思い出の側にいて下さい!
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ZUNTATA25周年おめでとうございます。
ZUNTATA さんとは、ゲームミュージックフェスティバルで
ご一緒させて頂き、当時、非常にインパクトのある、個性的なサウンドに、
圧倒されたのを、思い出します。
ステージは、スピード感溢れ盛り上がっていましたね。
また、機会あれば、ステージ拝見してみたいですね!
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ゲーム音楽は山ほど聴いている私ですが、その中において一番聴いたゲーム音楽サントラは、なにを隠そう『ダライアス外伝』です。『II』や最初の『ダライアス』、『ナイトストライカー』、『サイバリオン』などもよく聴きます。アルバムでは『ヌーヴェルバーグ』なんてサイコーですね。
ZUNTATA で言えば、オールド遺伝子なのでしょう。発足25周年だそうですが、そこからしばらくのZUNTATA サウンドは、私がゲーム業界を目指し、勉強し、業界入りした時期と重なります。
『ダライアス』の筐体に座る理由。それは他のゲームのように遊びを楽しむためというよりは、世界に浸るためでした。映像や画面構成もあるけれど、やはり最大の武器は音響。
その時に受けた、音で奏でる世界の広がりが、いまの私の判断基準を作っています。感謝しております。
メンバーのみなさま、これからも末長くご活躍ください。
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ZUNTATAの思い出・・・もちろんたくさんあります。
といいますか、タイトーサウンド自体、思い出で溢れています。
語ったら一晩の呑みでは間に合わないほどです。
スーパーデッドヒート、ワイバーンF0、アイザック、ラスタンサーガ・・・書ききれないのでダライアスに絞らせていただきますね(笑)
当時多大な影響を受けたサウンドはいくつかあるのですが、ダライアスはちょうどソーサリアンやイースIIを作っている最中にものすごくハマっていて、毎日ゲーセンに通ってプレイしていました。
シューティングとしてのおもしろさも去ることながら、やはり私を釘付けにしたのはそのBGM。OGRさんの作られたサウンドはジャンルは斬新で、メロディも美しくて素晴らしくて、なおかつFM音源の独特のアンサンブルとPSGのSEの絶妙なコンビネーションは私の大のお手本となりました。
また筺体にヘッドホン端子やボディソニックが搭載されているのも斬新でしたね。
特にボス戦BGMなどは低音がズンズンとおしりから脳天に突き抜ける感覚で、サウンドを体の芯から感じることができました。最高です。
ヘッドホン端子があったおかげでラインでウォークマンに録音し、家にかえってからもBGMを堪能できたことも本当に良かったです。
ダライアスは家庭用ゲーム機にも移殖され遊ぶことが出来ましたが、ゲーセンでのプレイは格別のものでした。今でも時折プレイをしたくなります。
今でもおいてあるゲーセンないのかなぁ・・・
などとつらつらとダライアス大好き話を書いてしまいましたが・・・
ともかく、25周年、おめでどうございます!
これからも素晴らしい音楽を期待しております。
※Mの文集「プロローグ」
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“いつも魂が震えていた”
―Live90
最前列で上半身裸で狂喜乱舞していた二人はこのページをみているだろうか。
ピアノはやめろと叫んでいたあの娘はまだビアノがキライなのだろうか。
圧倒的な存在感を放っていたリスナー達と共に築き上げた数々の幻象は、今もそこにあるのだろうか。
互いにメッセージを発信し、そこに陶酔の渦が現れ、正気を奪い、全身を震わせる。
核は膨張し続けやがて消滅する。
そんな繰返しでZは生き続けてきた。これからも。
「僕は発信しているか?」
《震えているか?》
“表現者であれ”
いつもそう呟く。
また新たなビッグバンがそこで待っている。
Thank you.
髙木 正彦
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ZUNTATAさま、結成25周年本当におめでとうございます♪
思い起こせばボクがJ.D.K.バンドに在籍していた時(※1 初代の方です)
当時「ゲームミュージック フェスティバル」(※2 1990年から行われたゲームソフトのゲームミュージックを中心に行なっていたライブイベント) というイベントが毎年熱く行われていましたね。これってZUNTATAさんが切っ掛けで始まったゲームミュージックムーブメントじゃないのかと、当時の事を思い出しそして今また再確認したのです。
25周年って一口に言いますが、ひとつのグループがメンバーは変われども四半世紀もの間ずっと続けていっているということ、それは音楽の魂を受け継いで継承している皆さんの情熱とモノ凄いエネルギーが成せる技!本当に尊敬いたします。
そろそろ2世メンバーが出てきても良いですよね?皆さんの息子娘、そして孫までが新たなサウンドチームを結成して、このZUNTATA魂を継承して、50年100年いや、千年と続けて行くことを僕は願っています!
高梨康治
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ZUNTATA25周年、おめでとうございます!
昔から大のゲーム好き&ゲーム音楽ファンでして、
ZUNTATAのお名前も結成当時から存じ上げておりました。
ゲームも古くはエレベーターアクションから始まり、
ダライアス、サイキックフォース、レイストームなどなど…本当に様々なタイトルをプレイしていました。
特にレイストームは当時かなりやり込んでいて、
ゲーム内容の素晴らしさは勿論の事、音楽や効果音など「音」が強烈に耳に残っています。
今でも1面ステージのBGMは大好きで、聴きながら目を瞑ると、
迫り来る敵キャラや自機のレーザーロックオンなど、ゲーム画面が鮮明に甦ってきます。
現在、2008年に新たに発足したFalcom jdk BANDのキーボード奏者として活動させて頂いております。
ZUNTATAと同じように、こちらも自身が子供時代から存在している長い歴史のあるゲーム音楽バンド。
そのバンドに自分が加入する事になるとは本当に思いも寄りませんでしたが、
関らせて頂けている事を大変誇りに思うと共に、
自分の様な「幼少時に黎明期のゲーム音楽を聴いて育ってきた世代」が
「今度は届ける立場になる」という時の流れも実感し、何だか非常に不思議な感覚を持ちつつも、
今このように幸運にもゲーム音楽のお仕事をさせて頂けている事に感謝しております。
ZUNTATAメンバーの一員となられている土屋昇平さん、小塩広和さんも
25周年という節目に在籍されている&自身と同世代という事もあり
「非常に近い境遇で、自分と同じ事を絶対思っているに違いない!」と
勝手に思い込んで、一方的に仲間意識と親近感を抱いております(笑)
これからも、ワクワクさせて下さる「ゲーム音楽」を期待しております!
ZUNTATAのロゴマークといえば皆さんご存知の「弁天様」モチーフのものですが、時代によってその姿を変えてきました。
ここでその変遷をご紹介しましょう。
第1期 (1987~1988)
初代ロゴマークです。
ZUNTATAロゴマークの伝統である「弁天様+ト音記号」のモチーフはこの時生まれました。
デザインは当時のタイトーのゲーム開発スタッフの方で、文字のレイアウトや大きさなどでいくつかバリエーションが存在します。
ここに掲載したのはアルバム「TAITO GAME MUSIC VOL.2 ダライアス」のものです。
第2期 (1989~1995)
ZUNTATAのロゴマークといえばこれ、という方も多いのではないでしょうか
80年代後半から90年代というアーケードゲームとゲームミュージックの一大ムーブメントが起きた時代で、ダライアスII、ナイトストライカー、メタルブラック、レイフォースなどの名作シューティングゲームが誕生。ZUNTATAも1990年のゲームミュージックフェスティバルでライブデビューをして以来、毎年のようにライブイベントに参加していた時期です。
第1期のロゴマークと同様にデザインにはいくつかバリエーションがあります。
第3期 (1996~2007)
足掛け11年も使っていたので、実はこの中で最も長く使われていたロゴマークです。
1996年にタイトーの独自レーベルである「ZUNTATA RECORDS」を設立するにあたって、レーベルのシンボルマークとしても使えるようにデザインされました。
これまでとはガラッと変わった雰囲気で当時は賛否両論ありました。
第4期 (2007~現在)
ZUNTATA設立20周年を記念して作られ、現行のロゴマークとして使っているのがこれです。
イラスト風だった第3期よりも、第1期や2期のようなシンボリックな方向に原点回帰するコンセプトでデザインされました。
伝統のモチーフである「弁天様」を採用しつつも、躍動感のあるデザインで現在のZUNTATAの顔となっています。